善と悪

友人の記事からのリンクで、この記事問いかけを見つけました。

  • なにが善で、なにが悪か。

・・・実はこれ、とってもシンプルに説明できます。


大切にしたいものを大切にする枠組み(環境・考え方・動き・陣営・想いetc)が「善」
阻害する枠組みが「悪」です。


たとえば。互いの生命を尊重しあう社会を創造する・・・という目的に照らせば、殺人は「悪」。


違う角度で言うと。
私たちがなにかを「善」と感じたり、「悪」と感じるとき、
実はそのむこうに必ず、なにか大切にしたいこと・かなえたい目的を、想定しています。得てして無意識のうちに。
その目的に沿うか、沿わないかで、「善」とか「悪」とか感じています。

  • このシンプルさを、ややこしくしているのはいくつかの混同。


まず。
「陽」と「陰」を、「善」と「悪」に混同しがち。でも、別物です。
たとえば。
日なたは「陽」、日陰は「陰」。
からだを温めたいときは、日なたに居ることが「善」、日陰に居ることが「悪」。
涼みたいときは、日なたに居ることが「悪」、日陰に居ることが「善」。


私が、なにを大切にすると設定するかによって、おなじ特性が善になったり悪になったりします。
そして、一本の木に、日なたと日陰があるように、ひとつの存在には陽の側面も陰の側面も、多様な特性が在る。目的遂行に生かせる側面と、阻害する側面と、両方在る。

ひとつの物事をふたつに分けたときに起こるのです。
つまり、ふたつに分ける基準を持った時に起きます。
自由人は毎日が旅:善と悪

ということなんですね。
善・悪の場合は、「xxを大切にする方向か、毀損する方向か」という基準によって、ひとつの存在がふたつの側面に分かれる。


ところが得てして私たち人間は、善い人/悪い人、善い国/悪い国・・・というふうに、存在そのもの・存在全体が、善だったり悪だったりするかのようにとらえてしまいがちなんです。これが第2の混同。


ディーゼル車は悪だ。大気汚染を促進するから。」・・・ほんとうにそうでしょうか?
大気中のすす微粒子を減少させる・・・という目的に照らすと、悪です。
二酸化炭素排出量を抑制し、石油を効率的に使用する・・・という目的に照らすと、善です。
ディーゼル車という存在そのものが、善だったり悪だったりするわけではない。


一昨日の記事で取り上げたスターウォーズでも、EP1で悪の権化と見えた通商連合が、おそらくは反乱軍の母体となり、Jedi率いる共和国正規軍が、EP4-6で悪の権化と見える帝国軍の母体となる・・・のでしょう、恐らくは。
なにが善で、なにが悪か。これは、セットする目的によって変わってくる。
そして、どんな目的をセットしても、全ての存在に、善の側面と悪の側面を見出すことが出来る。
「善な存在」、「悪な存在」なんてものは、ないのです。
「罪を憎んで人を憎まず」という聖書の言葉も、これに関係していますね!


さて、なんでこんな混同が生まれるのか。そこには、抑圧・固定化・自動化・正当化というこころのメカニズムが影響しているように想えます。
連想した事例をひとつ。
どこだかの会社が微粒子低減装置の検査結果をごまかした。その装置が付いた中古バスを都交通局が地方に売ろうとして、都知事に怒られましたね。結果、まだ使えるバスをスクラップにすることに。
今、地方で走っているもっと古いバスよりは、微粒子発生量が少ない。まだ使えるバスを有効活用することは、資源の有効利用や二酸化炭素排出量低減につながる。地球環境を守るという意味では、愚策です。でも「違法微粒子低減装置=悪」と感じてしまう。それが付いたバスを再利用することも悪と感じてしまう。
と、いうことは。「地球環境を守る」とは違う目的・もっと大切にしたいことが、無意識のうちにあるってことです。では、それって、なんでしょうね・・・。
たとえば。「ごまかしや不正をした会社と、その製品は汚らわしい。使い続けるなんてとんでもない、目の前から消えて欲しい。穢れがうつる」みたいな会話が脳裏をよぎる。自分の中の「ずるして得したい」という願望を抑圧しているものだから、不正をした会社や製品は徹底的に遠ざけないと、抑圧がほどけて出てきてしまいそう・・・。見せしめとして会社や製品を押し込めることで、うまく行かないと判っている自分の願望を封じ込めたい・・・。
どうやら私は、不正を抑圧・我慢している自分を納得させることを大切にしたいようです。だから、不正した製品の存在を許せない。


こころのそこから納得せずに、「不正は悪いから悪いんだ!」みたいに無理やり言い聞かせて抑圧してる願望があるとき。
その願望を連想させるような存在は、危険。だから、遠ざけたい。敵視して、無理やり押し込めたくなる。
自分のこころを抑圧してるから、抑圧を投射した対象も押し込めることで、抑圧を正当化したいんですね。自分の「陰」を抑圧してると、陰を想起させる存在全体を否定したくなる。
親が人生でなにが大切かを見失い、無理やり願望を抑圧してると、子供もそうなるなぁ。


ぽっかぽかさんのコメントが核心!親がどう子供に教えるかって、すんごく大切ですよねぇ。
人生でなにが大切なのかに立ち返って、どうするのがよいか選ばせれば、智恵が育つ。

  • 混同から抜け出し、多様さを活かすのに、重要なポイントは、2つ。
    1. どんな素敵さを生み出すことを、目的としてセットするか。
    2. ありのままの姿を全体的に見、どの特性をどう活かすかに着眼する。

なにを素敵と感じるかは、おなじ人間という生物同士、一致可能。
どういう特性を見出しているか、互いの視点をわかちあうことで、より全体的な、ありのままの姿を見出すことが可能。


今、悪と一般的に思われていることは、「生命・健康維持」という目的に照らして悪なことが、大半のように感じます。
素敵か否か、質が高いか低いか、も、善悪と混同されがち。でもこれらも、善悪とは別物です。
とりいそぎ、ここまで走り書き(^^;

なぜ、人殺しを悪と感じるのか。
「悪いから、悪いのっ!!!」と判断停止し、決め付けるのではなく、自身に問う。
・・・人の命を尊重したいからだ。では、なぜ尊重したい?

人の命の価値は、まずそれ自体が維持されないと「人間の全ての欲求の価値を実現できない(目的を達成できない)」からこそ、最重要にして基底に置かれるべき位置づけになる
So-net blog:新しいものが好き!!:悪い人 参明学士さんのコメント

多くの人が、あぁ、そうだよなぁと共感するのではないでしょうか。


善悪は、なにを大切にするかで変わる。
・・・これは老子が語るように善悪の特性なのでしょう。
しかも、なにがより大切かは、人によって・ときによって、異なる。
・・・だから、いろんな善悪の評価軸が、存在する。ひとりの人の中にさえ。
でも、根源的に大切なものに近づくほど、「おぉ!それは俺にも大切だ」って感覚は、どんどん共有可能になっていくみたい。
根源的に大切なものは、個々人、そうは違わない。おんなじ種族の動物ですから(^^)そして、おんなじ自然法則が作用する宇宙に生きていますから。


一人一人が、自分のこころをきちんと観察し、人生で根源的に大切なものって何なのかをしっかり探求する。表現する。相対性で成立しているこの宇宙。だからこそ、より大切なものを、どこまでも、いろんな形で探求・表現できるのかもしれません。生命の尊さと可能性の高さを、そんなふうに語ることができるのかもしれませんね。