ユリーカ!〜仏陀の悟りに到る道〜: 愛憎の克服 http://mind.moo.jp/cgi/mt/archives/2004/11/post_106.php より

四苦八苦で言う「愛別離苦」とは、愛する人と離れる苦しみである。
「怨憎会苦」とは、嫌いな人と会わないといけない苦しみである。

父の死を体験して以来、愛する人と離れることが、さほど苦ではなくなった。
会うことの出来ない寂しさはあるけれど、その影響は確実に自分の中で生きている。
共に過ごしたときに、築き上げた素晴らしいものは、自分を変えている。
空間的に離れ、または2度と会えないとしても、その素晴らしさに変わりはない・・・みたいな感じかなぁ。
嫌いな人と会うのも、さほど苦ではないなぁ。
感情っていろいろざわめくけれど、それは自分の表層。防御反応だったり、自動反応だったり。
「固定化した思考パターン」や「過去の記憶」から来るもの。
自分の魂は、感情とは別に厳然と存在するってわかってるから、感情にあまり振り回されなくなったのかも。
生の今を味わうことで、途方もない歓喜という感情が喚起されることはあるなぁ。

愛とか、憎しみというものは、
いったいどこに存在して、私を攪乱しているのか。
それは、ただ幻に過ぎないのだ。
わが心よ、怖れを去れ。
そして、智慧の獲得のために努力せよ。

限定された愛が、憎しみや執着や恐れを生む。
固定化した思考パターンに気づき、智慧に触れることで、博愛が発揮され、愛の偏在は霧消する。
・・・というのが、僕の今までの直感的理解。
それとはうまく一致するかなぁ。

結局、愛や憎しみといった感情に支配されて苦しんでいるのは、
無明(智慧の欠如)のためであり、
智慧(悟り)を得て、私達がとらわれている愛や憎しみというものは、
幻(「空」「無常」)だと見抜く力が必要である。

僕のとらえている愛は、感情ではないなぁ。エネルギー。いや、感情も一種のエネルギーかぁ。
ことわりを見抜いたり、洞察力を働かせたり、直感を働かせたりするのが、智慧かな。
どうも、このユリーカ!ってサイトの解釈、しっくり来ないなぁ。
「空」の解釈も浅いように感じるなぁ。
愛や憎しみへの「とらわれ」が、幻だってのはわかる。でも、無常=空=幻 ではないような気が。
愛や憎しみというエネルギー・想念が、空から色を生み出すというのはわかる。それが無常だということも。


愛というエネルギーが、喜びも悲しみも苦しみも、この世の全てを生み出している。
そのエネルギーを、智慧とともに自在に用いれば、より素晴らしい結果を生み出すことができる。
・・・ってことだと想うんだよなぁ。


いやぁ、ごみゃごにゃ考えすぎかな。
例えばスターライトジャズの最終回。例えばティピコ・オリエンタルの最終回。泣きながら笑っていた。嬉しいんだか悲しいんだかわかんない。途方もない一体感。あれが法悦・悟りの状態なんじゃなかろうかねぇ。
それをどう言葉で表現しても、「バットの芯でボールをとらえる」実体験をしないとわからない。


でね、あの瞬間は「苦」から解放されていた。
でも、その体験に執着したら、そこに「苦」が生まれる。
「苦」は執着から生まれるんだと想うんだよねぇ・・・。
「愛」という情熱を持ったまま、結果への執着を手放す。すると、事前の想定をはるかに超えた、素晴らしい体験が生まれる。

アマグラマ雑記2003:「醜い家鴨の子の定理」について http://hp.vector.co.jp/authors/VA016875/try18.html#6-22 から
「正しい」「間違っている」という議論をするのが意味が無いような気がしてしまう。結局机上の議論は意味がなくて、実際のブツをどうやって作るノカ、それだけが意味のある、比較できるものだと思うのです。

つまり、議論よりも実際のブツを見せろと。実際のブツだけが議論の結論を正当化できるものだ、と思うのです。そういう意味で現物(現実じゃないよ!)主義、概念よりも実際のモノ、ナマモノの方が偉いとだと。そのせいでしょうか、精神の失調は、肉体をいじめると直る、と何故か信じているのは。ようするに、肉体の方が精神よりも偉いと信じているのですな。実際はそんなこと根拠も何もないんだけどね。

ってことですね。うん。