松岡正剛の千夜千冊:『火の鳥』(全13巻)手塚治虫

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0971.html
印象に残った部分を、取り急ぎメモ

 悪が多めに、それなのに善も見つかりにくいという展開は、読者をどこへ連れ去るかというと、そこには二つの両極が待っている。
 ひとつは「聖なるもの」「大いなるもの」「普遍なるもの」に連れ去っていく。いわば、ダンテ・アリギエリとウィリアム・ブレイクの歌が聞こえるほうへ向かっていくということだ。これはまあ、見当がつくだろう
 もうひとつは、読者は自分の共感や反意を登場人物にも託せず(なぜならすべての登場人物はすでにその感情と意識を描き切られているから)、といって自分の内側にも行けないので(なぜなら読者の内側よりずっと大きな意識のドラマが描き切られているのだから)、ついつい作者のほうへ向かっていく。
 作者が意図してそうなるわけではない。読者としてはそれを作り出した作者に、自分の意識の行方を託する以外はなくなってしまうのである。
 きっと手塚治虫はこの作者のほうへ流れこんでくる大量の読者の意識を感じるたび、慄然としたことだろうと思う。作者の手塚としては、ちゃんと「普遍」を提示したのだが、読者はとうていそんなところへは進めないものなのだ。
 しかし、このようになるのは、手塚が善を多めに残さなかったからなのである。そこを凡百の通俗作家たちは善ばかりを終盤に残して、ドラマを消費財にしてしまうものである。