私の音叉:正義とJustice

http://d.hatena.ne.jp/yukolovesmusic/20040716#p1

「Justice」という言葉を改めて考えてみました この「Justice」は 私にとっては 天秤っぽいイメージ? というか 釣り合い とか 均衡が崩れているのを 戻す 正す? といったイメージなんですよね それに対し 「正義」は まずは絶対善有りき

西欧のほうが「絶対善」を想定する・・・というイメージがあったので、目からうろこでした。
西欧がどちら、東洋がどちら・・・というのはさておき、おおざっぱに2つのスタイルがあると想うんです。

  • 「絶対善」や「世間」や「普通」などを基準にし、善悪をレッテルはりするあり方がひとつ。
  • どんな均衡が崩れていると感じているのか、なにが損なわれていると感じているのか、どうだったら素敵だと感じているのか・・・自分自身と、そして他人としっかりコミュニケーションして、生の現実を創造していくあり方がひとつ。

前者は、もはや限界を迎えているような気がする・・・・・。

こちらでは あなたが悪い という言い方よりも それはフェアじゃないという言い方の方をよくするんですよね つまりは 善悪の問題ではなく 人との関わりの中での均衡の話しとなる

ルールと自分との関係の持ち方も、ここで違ってきますね。
どの観点からフェアなのか、フェアでないのか、どんなルールを想定・設定しているのか・・・を問い掛ける糸口になる。

 人は人を裁かない 神のみが裁く だから 人の間にあるのは 「正義」ではなく その均衡を正す「Justice」なのかな と

聖書のこの記述、「罪を憎んで人を憎まず」同様、とても惹かれるんです。
「神」に抵抗がある人は、「歴史」や「理・ことわり」や「宇宙」と置き換えてみると、意味がわかると想います。
「レッテルを貼るな」という意味でもあるだろうし、「自分に見えていない領域があるんだよ」という意味でもあるだろうし。