ハッピー・キッチン

作業をしながら、ちらちらと。
なんだか不思議な風合いの映画だった。

史上最大の作戦

実は、初見。
・・・と思ったら、観たことがあった。たぶん何度も。


では一体、この凄い映画・・・スペクタクルとサスペンスとドラマに満ちた映画の中で、なにを覚えていたか。
それは、クリック1回・2回の約束事と、屋根に宙吊りになって助かったパラシュート兵のシーン。
誤って敵中に降下し、為す術も無く撃ち殺されて行く仲間を、ただただ観ているしかない、あの物悲しくも滑稽な、あのシーンだった。


かっこいいシーン、つい、血わき肉踊ってしまう瞬間も沢山ある。
けれど、そんなシーンも物悲しかった。


プライベート・ライアンとは、ぜんぜん違う描き方をした映画だと思っていた。実際今回も、途中までそう感じていた。
でも、ある意味そうじゃなかった。
戦争の間抜けさ、ちぐはぐさ、残酷さを、
そしてそれを、いなしたり、かわしたり、乗り越えたりしようとする、人間のいじらしさと小ささと大きさを、
描いてあった。
その象徴として、あの宙吊りになったパラシュート兵を、僕は覚えていたのだろう。
・・・あぁもしかしたら、僕は彼に、自分の分身を観ているのかも知れないな。渦中からちょっと離れて、物悲しい観察者の立場に置かれてしまうという。


しかし、なぜみんな、鉄かぶとの顎紐を締めないんだろう。脱げては拾いに行き、かぶり直しては脱げ、また拾い直し・・・命絶えて、拾えなくなるまで。


あの、軽快で・勇壮で・どこか剽軽なテーマ曲。
エンドロールで、海岸に転がる鉄かぶとと、静かに寄せる波がただ映る中、あのテーマ曲が流れたとき、
闘った人たちへの敬意・慈しみ・鎮魂と、戦争のいさましさと馬鹿馬鹿しさとが、すぅっと全体的に観えた。なんだか神の視点のように、なんだか喜劇のように。
・・・クワイ河マーチが、戦場にかける橋で流れたときと似た感慨。確か社会人になってすぐ、帰省した実家で亡き父と一緒に観たときの。

父:この映画、どう思った?
私:それぞれ、自分の仕事に全力を尽くして、最高の仕事をして、つぶしあって無になってしまう。ひとの争いの馬鹿馬鹿しさを感じたなぁ・・・。
父:ある意味、反戦映画といえるねぇ。


まだ体験が生々しいときだったからこそ、こういう気持ちの描き方が出来たのだろうし、こういうリアルな恐怖を避けた描き方しか出来なかったんだろうな。
だからこそ、の、この感慨なんだろうな。