毎日新聞夕刊 シリーズ<現在>への問い 第1部 平和のつくり方① 山崎正和

文明の衝突」「民族」という概念に僕が感じてた胡散臭さを、見事に解き明かしてくれた。

この現代、文明の衝突は原理的にありえない。(中略)現代は人類史上初めて文明が一つになった時代だからである。西洋のルネッサンスに始まった「近代文明」が、いまや世界のデファクト・スタンダードになった。

そして、具体的事例を列挙してます。アラビア数字、自然科学と近代簿記、医術と軍事技術の近代化、西暦、絵画の遠近法や陰影法、楽譜、「差別や貧困の解消」という理想。

じっさいこの文明の世界化は一つの奇跡であって、トインビーが文明史を考えたときには想像もできなかった事態である。文明が世界を分割してきた、数千年の歴史が終わろうとしている。
(中略)
変化が静かでしかも膨大だったために、気がつくとそれに立ち遅れた地域や社会集団も残った。遅れた人々も近代化に努力して成功も収めたが、それは自己変革の一種であったから、かりに成功しても一種の鬱屈した感情を伴いがちであった。変化が合理的で反論が難しく、利益にも適っていればいるほど、それが本来の自分のものではないという思いが胸を噛んだ。
(中略)
日本でも日露戦争の直後から、この名状しがたい苦い気分が時代を包んだ。
(中略)
そこで多くの後発社会の指導者が思いついたのが、あの「民族主義」という呪文であった。もともとこれはフランスで近代国民国家が生まれたとき、それに立ち遅れたドイツで発明された言葉である。法と制度にもとづく合理的な国民国家にたいして、文化と習慣を基盤とする情緒的な結束を求めるスローガンであった。

うむ、大いに納得です。かくして「民族」という実体の無い概念が生み出されちゃう。
その後、「民族」の虚構性に論が進みます。
第一に、国家をつくるほど大きな集団が、共通の文化と習慣を持ちうるはずがない。

文化的な習慣は個人のものであり、せいぜい家族や村の共有物であって、それが民族にまで拡大されるときには、必ず政治的な強制が伴っていたのである。

第二に、民族主義が主張する抑圧からの解放は、民族の概念なしに実現できることばかり。