特集ワイド:憲法よ 医師・中村哲さん

毎日新聞 2013年06月06日 東京夕刊 http://mainichi.jp/feature/news/20130606dde012040026000c.html

 <この国はどこへ行こうとしているのか>

 ◇守るより実行すべきだ−−医師・中村哲さん(66)

 ◇9条はリアルで大きな力 日本人だから命拾い、何度もあった

 薄暗い会場のスクリーンに1枚の写真が映し出された。干ばつで広がる砂漠には草木一本生えていない。「この地に私たちが用水路を建設した1年後の写真がこれです」。次の写真が映し出された瞬間、会場にいる約1200人から自然と拍手が湧き起こった。

 まぶしいほどの緑、緑、緑。壇上で、ペシャワール会現地代表の中村哲さんが静かに言い添える。「この地に15万人の難民が戻ってきました」。拍手が鳴りやまない。生命力あふれる大地の写真は、どんな言葉より雄弁だ。

憲法は我々の理想です。理想は守るものじゃない。実行すべきものです。この国は憲法を常にないがしろにしてきた。インド洋やイラクへの自衛隊派遣……。国益のためなら武力行使もやむなし、それが正常な国家だなどと政治家は言う。これまで本気で守ろうとしなかった憲法を変えようだなんて。私はこの国に言いたい。憲法を実行せよ、と」

 「実行」という言葉を耳にした瞬間、あざやかな緑の大地の写真が脳裏によみがえった。理想は実行された時、あんなにも力強く人の胸に迫るのだ。

「欧米人が何人殺された、なんてニュースを聞くたびに思う。なぜその銃口が我々に向けられないのか。どんな山奥のアフガニスタン人でも、広島・長崎の原爆投下を知っている。その後の復興も。一方で、英国やソ連を撃退した経験から『羽振りの良い国は必ず戦争する』と身に染みている。だから『日本は一度の戦争もせずに戦後復興を成し遂げた』と思ってくれている。他国に攻め入らない国の国民であることがどれほど心強いか。アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』というのが迷信だと分かる。敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです」

(中略)

 救おうとしてもなお、干ばつ、病気、戦闘で人の命が失われていく国にいるからこそ、日本にいる人より、憲法をリアルに感じられるのかもしれない。

 あなたにとって9条は、と尋ねたら、中村さんは考え込んだ後、「天皇陛下と同様、これがなくては日本だと言えない。近代の歴史を背負う金字塔。しかし同時に『お位牌(いはい)』でもある。私も親類縁者が随分と戦争で死にましたから、一時帰国し、墓参りに行くたびに思うんです。平和憲法は戦闘員200万人、非戦闘員100万人、戦争で亡くなった約300万人の人々の位牌だ、と」。

 窓の外は薄暗い。最後に尋ねた。もしも9条が「改正」されたらどうしますか? 「ちっぽけな国益をカサに軍服を着た自衛隊アフガニスタンの農村に現れたら、住民の敵意を買います。日本に逃げ帰るのか、あるいは国籍を捨てて、村の人と一緒に仕事を続けるか」。長いため息を一つ。それから静かに淡々と言い添えた。

 「本当に憲法9条が変えられてしまったら……。僕はもう、日本国籍なんかいらないです」。悲しげだけど、揺るがない一言だった。【小国綾子】