残酷なのは・・・

作家の雨宮処凛さんが、毎日新聞に寄稿して曰く。

今回、死刑という決断をした裁判員の人たちが、ある日、自分が裁いた相手に死刑が執行されたというニュースを聞いた際、どれほどの精神的な負担がかかるかを考えると、やはり裁判員制度には「残酷」という言葉が浮かんでくるのだ。
異論反論 裁判員裁判で死刑判決が出ています 被告の「反省」見抜けるか

果たして残酷なのは、裁判員制度だろうか。


かつてフランスでは、死刑執行人は世襲制で、社会的差別のもとにおかれていたのだそうな。
”誰かがこの役目を背負わねばならない”という死刑執行人一族の使命感が、理不尽な立場を引き受ける支えとなっていたという。
なんと残酷な・・・。


職業として裁判官を選んだひとだろうと、刑務官を選んだ人だろうと、ひとに死刑を言い渡し、執行するその精神的負担は、とてつもなく重いものがあるという。
わたしたち大多数の国民は、自分たちの主権の下に定め運用している法律によって発生している、この重い責任を、特定のひとびとだけに負わせ、自分たちは知らん振りしてきた。
なんと残酷な。
フランス革命前の国民に主権がなかったことを想えば、彼らよりもはるかに、われわれは残酷だったのではなかろうか。


裁判員制度が、残酷なのではない。
残酷なのは、死刑制度だ。
殺されていい命など、ひとつもない・・・と、殺人を罪と定めておきながら、
その罰に、命を奪う刑を用意する、この矛盾。
これこそが、死刑にまつわるさまざまな残酷さの源だ。


報復のために、刑罰があるのではない。
社会を、よりよきものにしていくために、刑罰はある。
遺族の報復感情は、満たされないかもしれない。でもそれは、考慮に入れるべきではない。ハムラビ法典のむかしから、報復感情のままに行動し、エスカレートすることを防ぐために、法律は存在した。