ポール・グレアム「説得か、発見か」

ポール・グレアムさんのエッセーが面白くて、このところ順次読んでいる。
今日、”ははぁ、なるほど!!!謎が解けた・・・。”と腑に落ちたのが、表題のエッセー。

私は文章では人々を怒らせる。

うん、僕もそうなんだよね。なんでだろう?!?

それはマイケルが人々を怒らせるのと同じやり方だ。つまり「文章を書くときは愛想よく」という約束事があるのに、私はそれを無視するのだ。
「愛想良く」とされているのは、ほとんどのエッセイの目的は説得だからだ。政治家なら口をそろえて言うように、人々を説得するには、事実をあからさまに述べるだけではダメだ。薬を飲ませるには、砂糖を1さじ、加える必要があるのだ。
私は必要なら、そう書くこともできる。例を示そう。以下に引用するのは、労働組合に関する人々を怒らせそうなエッセイだ。

労働運動が英雄的な組合の指導者たちの創造物だと考える人々は、説明の必要な問題にぶちあたっている。なぜ今、労働組合は縮小しているのか。せいぜい、文明が没落したのだというありがちな説明に頼るしかないのではないか。我々の祖先は偉大だった、とか。20世紀初頭の労働者は、今では失われている真の勇気を持っていた、とか。

そして以下は、同じ段落を組合が好きな人が喜ぶように書き直したものだ。

労働組合の初期の指導者たちは、労働者の労働環境を改善するために英雄的な犠牲者となった。現代の私たちにとって、当時、必要だったに違いないその勇気に感謝するのは難しい。単に心理的な勇気だけはなく、肉体的な勇気も必要だったのだ。組合が最初の一歩を踏み出そうとしたとき、組合の指導者たちが数日のうちに肉体的に攻撃されることは当たり前だった。現在、労働組合が縮小しているからといって、現在の労働組合の指導者たちは勇敢でなくなったということではない。現代の雇用者は、労働組合の指導者を痛めつけるためにヤクザを雇うわけにはいかないが、もし雇ったなら、現代の組合の指導者たちも、そんな挑戦から逃げ出すはずがないと思っている。だから私は「労働組合が衰退したのは、その指導者たちが運営している人たちがある種の堕落をしたからだ」と考えるのは間違いだと思う。確かに、初期の労働組合の指導者たちは英雄だった。だが労働組合が衰退しても、現在の労働組合の指導者たちが二流だからと考えるべきではない。原因は外部にあるに違いない。

これらは同じ点を指摘している。

なるほどね!
なぜ、グレアムさんが、あえて簡潔に前者のような表現のエッセーを書くのか。

ほとんどの書き手は説得するために書く。そうするのは、単に習慣や礼儀正しさのためだ。だが私は説得するために書いているのではない。私が書くのは新たな知見を得るためだ。

ふむふむ。
僕も、この日記に関してはそうです。

現実の読者を説得するために書くという習慣があるので、そうしない人は傲慢と思われるだろう。現実には、傲慢であるよりなお悪い。というのも、読者は人を喜ばせようとするエッセイに慣れているから、ある論点の片方を不愉快にさせるエッセイは、もう片方を支持していると思われてしまうからだ。

うむ、これありがち、ありがち。

自分の考えが何なのかは、最短の言葉に縮めて初めてわかるのだ。2番目の段落の危険は、より長いというだけではない。自分に嘘をつき始めているのだ。読者の誤解を避けるために自分が加えた歪曲が、自分のアイデアと混ざってしまう。

そうだよなぁ。そうなんだよなぁ。


僕の場合、時として、
説得すべき場面でも、知見を得ようとしちゃう傾向にあるかもね。
・・・というかさ、対話によって、それぞれがひとりでいたのでは観えなかった、あたらしいなにかが見つかる、そこにこそ、対話の価値があると僕は思ってる。
   課題の発見も、問題解決の方策も、あらかじめセットされた結論どうしで、陣営に分かれて力押ししたって意味がないじゃないか。


新しいアイディアって、はじめはまだ輪郭がぼやけていて曖昧な反面、既存の概念や常識とは衝突するから感情的反発を生じやすい。
対面で話していれば、笑顔や表情で、論理のとんがりを鈍らせることなく、対話を進めることができるけれど、
文面だけの場合は、自分自身を題材として扱うとか、おちゃらけをまぶすとか、極論っぽくして笑いを誘うなどの工夫をしないと、反発を生じやすいんだよな。


ソクラテスというひとが、対話を通して知見を深めてたと知ったのは、小学校に入ってすぐだった。
あぁ、2000年以上昔から、ひとはそんなふうに探究を進めてたんだ、と嬉しかった。
でも、ソクラテスは、対話で常識を揺さぶったがゆえに、強い反発を生じ、最後は裁判で死刑となった。
論理を鈍らせることなく、うまくおちゃらけたり、笑わせたり。
それでかえって、アイディアが磨かれ、知見が深まるようなやり方は、たぶんあるのだろう。
”死なないで済むソクラテス”を目指すかなぁ・・・。


ま、ひとつはっきり言えることはある。
感情や気分なんて、所詮、感情や気分だ。
ふりまわされるな。ふりまわしてしまえ。
・・・こんなこと書いてるから、怒らせちゃうんだよなぁ(^^;


いやいや、僕の場合はそんな高尚なもんじゃなくて、
無意識のうちに、自分が気分いいことを最重視してるのかもしれんぞ。気をつけねば。
・・・って書いとけば、あたりが柔らかいかなぁ(^^;ははは。