みなが専門家・みながリーダー・・・な社会に
うーん、果たして、うまく書き表しきれるかどうか・・・。でも、書いてみます。
結局人の集団はリーダーがいなければ衆愚にしかならない。
その通りですね!
そして・・・
20年前の体験
以前も記事にしたのですが・・・
20年ちょっと前に受講した、あるセミナーの最後。
受講生全員(たしか250人ほどもいた!)の利害調整を、なるべく短時間で、全員うまくいくように、受講生だけで行う・・・という実習がありました。
「そんなこと、無理!」「俺が、わりを食ったらどうしよう!」という不安と、
「よーし、やったるぜ!」という意欲とが、こころの中で綯交ぜになりつつ、実習に突入。
まずは、目標時間の設定。あっという間に決まりました。
そして、調整スタート。
「まずリーダー決めて、やり方を決めますか?」「いや、各々走りながら、自主的に調整していった方が早いで」「修正も効くんやから、まずはどんどん仮に決めていこうや!」と、すぐ行動に移る。
一目散に仮確定する人。
全体の様子を見守りながら、おもむろに動く人。
「あちらに余裕がある」とか、「こちらで譲れる人居ないか」とか、情報を流す人。
進行を順調にするアイディアを思いついて、語る人。その周囲から、即各自、自主的に採用して、瞬時に実施される。そしてあっという間に会場全体に伝播する。
仕切り慣れてる・慣れてない、押しが強い・弱いに関係なく、
しゃべるべきことのあるひとがしゃべり、静かにしてるべきひとは静かにし、走るべきひとは走り、見守るべきひとは見守り。
だから、大人数が活発に動いているのに、声を荒げることもなく、とってもスムース。
・・・結果、目標を軽く上回る、画期的短時間に完了し、
そのまま自主的に、この実習で学んだこと・気づいたこと・感じたことの発表にまで突入してしまいました(^^;
あまりにも鮮やかな体験でした・・・。
”全員がリーダー”
あれは、”全員がリーダー”というチームでした。臨機応変に自己組織化するチーム。
最高に民主的で、最高に効率が良くて、最高に幸せで、もっとも自然の摂理にかなった組織。今思えば、仕合わせる幸せに満ちた組織でした。
最終的にはたぶん、人類社会全体が、そういう組織へと進化していく。
それこそが、”持続可能な社会””だれにとってもうまくいく社会”なのだろうと、僕は観ています。
それが可能になったのは・・・
1.全員が、”全員がうまくいく”(ということは、もちろん自分もうまくいく)結果を創ることに、腹をくくっていた
2.随時修正が可能だった
3.全体の状況を、全員がリアルタイムに把握できた
4.必要なトピック(アイディアや、アクシデントなど)が、即時、必要な範囲にブロードキャストされる
5.全員が、自分自身の判断・決断の全権を握り、自主的にベストな行動をとれた
といった要件が、備わっていたからだと、私は考えています。(まだ見落としが在るかなぁ・・・。)
20年前だと、これは”目が届く範囲”でのみ揃う要件だったかもしれません。
そして人間は、歴史を通じて、”目が届く範囲”を飛躍的に拡大してきた。
どうでしょう?今や・・・道具立ては、揃いつつ在る。地球規模で。
分断の弊害
世の中の運営に関していえば「1. その任を遂行できる熟達者がいて基本的にその人間がその地域に従って判断/行動できること、2. その行動が全体利害から著しく逸脱しないように監視されていること」が、必要な両輪なのだと思います。で、現在の社会では民主主義がその2項の役割を担っているということだと思います。もう少し突っ込んでいうと「合議制は利害調整はするが、価値創造はしない。」ということになります。日本のマスコミの報道を見てると「その道のプロを育成してサービス全体のレベルを上げていく」という点についての優先順位というか、考慮が低いような気がします。
なるほど。
そして、
”俺は1.じゃない。2.の役専任"・・・という態度が、日本のマスコミが陥りやすい”悪者探し”の真因かも。
上記の実習も、日本の製造業を世界一にした”QC”も、皆専門家で、皆調整役。その結果、利害調整=価値創造が、現場ベースで、即時・実務的にぐるんぐるん動くから、うまくいく・・・ということかも。
養老さんがいわんとしていることは、一言で言うと「現場主義」「事実主義」ということだと思っています。その思いの引き金になったのは、「今の世の中、優先すべき事を後回しにして、そうではないことを優先して、結果おかしな世の中になっているのではないか。」という思いではないかと思います。
(中略)
「本ばっかり読んでもダメよ、現実を経験した量とバランスが取れて初めて理解できるのよ。」
(中略)
言葉の背景にある状況、事情、事実とセットにしないと理解できない
その通りですよね。
ただ、パレスチナ問題とかの民族問題は、実際の経験が決して一直線に解決を導くものではないことを示す好例でしょう。
いえいえ、民族問題も養老さんがおっしゃる”バカの壁”の好例でしょう。
あちら側とこちら側に脳内で分けてしまい、こちら側で起きていることだけを観て、あちら側で起きていることは観ない。
あちら側で起きていることも、ちゃんと深く知ってしまったら、壁は崩れ始める。
”思いやり”が超える鍵でしょう。
壁が己の中に在ることを知り、その向こうを思いやる。
1. ひとはみな、自分の置かれた状況・視点に関する、唯一最高の専門家である。
2. ひとはみな、全員がうまくいく結果を創れる、調整役である。
という在り方に立ったとたん、道が開けるのではないでしょうか。
”バカの壁”を超えることを邪魔するのは、既存の秩序が崩壊することへの恐れでしょう。
己の中の秩序・組織の秩序・社会の秩序・・・。
養老さんは新聞のインタビューでこんな発言をしていました。「情報が多すぎて判断が狂っているケースが結構見られます。そういう意味では情報の取り込む量を意識的にコントロールすべきだと思います。」私などは「外部で絞ってしまえ。」と思うわけですが、養老さんは、「それも個人が自分でできるようになる形の方がいい。」と思っているわけで、根本的に人間を信用しているんですね。
外部で絞れば、その集団内の情報は同じような偏り方をする。
それは、違う絞り方をしている集団との間に、民族問題のような軋轢を生みます。
だから、各自がそれぞれ、情報の取り込みをコントロールすべき。自主的に。そうすれば隣人から”あぁ、こういう絞り込み方も、判断も、在るのか”という気づきが得られますよね。
”情報爆発”への対応は、各自が多様な自主性を持ち、多様な隣人と交流しながら生活することでのみ、成しうるような気もします。
世界のフラット化
コンテナ物語という本が、面白そうです。
四角い鉄の箱・コンテナにまつわる物語。
- 起業家精神/発明とシステムチェンジの好例(ニーズ発生・既存システムとの整合性・軋轢・規格統一)
- 港湾労働者減少&倉庫/工場が海沿いでなくても済む⇒都市構造の変化・海運の収益源が船だけでなくコンテナターミナルへ・長距離物流コスト大幅低減(ざくっと「京都-大阪と、大阪-オランダが同運賃)⇒産業全体の構造変化
そして、世界は変わった。
物の流れが低廉になれば、ものにかかわるあれやこれやは、特性に応じた、その時最適な場所で為されるようになる。その営みがまた、場の特性を変え、為されることも変わっていく。
いま、情報も。
これも面白そうな本・・・フラット化する世界 - Google 検索
- 人々は人種、住まい、階層などの社会的枠組みを超えて、すばやく、簡便に、かつ安上がりにつながりを持ち、協力しあうことができる道具と能力を得た=フラット化。
- 要因=3重の収束:機能の変化・風習の変化・制約からの解放
- 3段階:国のグローバリゼーション(国家が武力で世界統一を目指す)⇒多国籍企業の時代⇒個人のグローバル化
そして、こういうことが起きる。
遂に「天安門事件」が検索可能に Googleが中国政府の検閲に抵抗
フラット革命という本も面白そう。
インターネットが、言論の徹底したフラット化をもたらしている。それは「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」が問われる世界。
肩書や組織や権威に関係なく、個人個人が自らの世界観と論理によってタブーなき言論を展開する生々しい世界だ。
どこかに帰属し安心である一方で窮屈な社会。それが反対に、自由だけれど精神的に不安になる社会に移行しようとしている。その辺の感覚って、僕は実によく分かる。僕は人生の半分近くを米国で過ごしたんだけど、米国はまさに自由だけど精神的に不安になる社会だった。日本もそんな不安定な社会になっていくんだろうなあ。
これまで国家のになってきた「公共性」を自律分散的なシステムによって再建する必要がある
これまで米ではマスコミが「公共性」を自律分散的に担保してきたそうな。でもそれが弱体化。
すると「公共性はわれわれ全員が分散して担う」ということになるんだろうなあ。