作られた記憶
メディアを通して私たちが知っていることは、作られた記憶である可能性が高いという。重要な局面で、記憶が漏れ落ちてしまうことがあるという。そして、混乱に筋書きを与えようとする行動が、本当の殺人になってしまうとしたら、そこには人間のどういう仕組みが隠されているのだろうか。興味が尽きない。
報道がおこなうべきことは、犯罪者を自分たちとは異質な者として攻撃することではなく、勧善懲悪の正義の味方になることでもなく、誰もが陥るかも知れない、人の謎に迫ってゆくことではないだろうか。本書はその姿勢を見せてくれた。地域の新聞だからこそできることがあるのだ。
私たち人間は、記憶を創り上げていく。
”確固たる記憶”のはずが、客観的な記憶とまったく相違していることも、しょっちゅうある。
誰それはこんな人で、ああすればこうなって、この店はこんな店で・・・私はこういう人で。
ほんとうにそうだろうか?
”記憶”をもとに、私たちは世界観を組み立てている。あのとき、あのひとはこんなことをした。あのとき、ああしたらこうなった。あのひとが、あの店はこうだったといった。私がこうしたら、みんなはこんな反応をした。
その”記憶”って、確かだろうか?疑いの余地は無いだろうか?その解釈は唯一のものだろうか?・・・いや、とってもあやふや。
でも、わたしたちは”アイデンティティ”を求めたがる。
わたしはこういうもので、あのひとはこんなひとで、この国はこんな国で、こうすればああなって、あれはこんなふうで。
・・・それとズレていると気持ち悪いから、現実を、脳内のイメージにあわせようとする。
二つの道がある。
- ならば、脳内のイメージを、好ましいものにする
- ”ありのまま”をとらえる