”事業仕分け”が終わって

小沢一郎さんのシステム設計力は、凄いんだなぁ・・・というのが、まず一番の感想。


スタート前、初当選の国会議員を、仕分け人からはずして批判された。「専門家もいれば、造詣が深いひともいる。そもそも国民の信託を得てることは、初当選だろうとベテランだろうと変わりない。選んだ国民の意思をないがしろにする行為だ」みたいな論旨だったと記憶している。僕も、そうかもなぁと思った。
でも、いざ始まってみると・・・なるほどあの仕事は、初当選の国会議員には無理だ!
どの事業だって、必ず受益者は居る。どんな結論を出しても、不満に思う人は、必ず居る。いかに見識が深いひとだったとしても、議員の立場で仕分け人を務めるには、それまでの活動が評価した支持者がしっかりついているようなひとでなければ、判断に曇りが出るだろう。


この件、新聞は散々批判しておいて、この観点での振り返りを、少なくとも僕は、目にしていない。
批判は一種の仮説だ。だから、その仮説が妥当だったか否かの検証って、よりよい社会を築いていく上では不可欠なはず。
そして、振り返ってみての検証って、誰にでも出来ることなのだけれど・・・私たちは、不都合なことは忘れてしまい勝ち。


小沢さんには、”この構成で進めば、こういう事態を招くだろう”と事前に予測する力がある。
それは、仮説を検証する習慣が薄く、”こうあるべき”で突き進むひとたちとは、衝突しがち。
理で説明しても、ことが起こる前には、得心してもらえない。
ことが起きた後でさえ、衝突を忘れられてしまう。それならまだいい。私たち人間は、仮説をはずした居心地の悪さを解消するため、相手を悪人にするよう、記憶を歪めさえもする。


文系・理系をぱっきりとわけ、”気分”で動くことを当然視するのは、そろそろやめる必要があるだろう。
ありのまま、生の現実をつかむ。
これは本来、わたしたち日本人が、得意としてきたことのはず。
もののあはれ”を感じながら生きることは、科学的な態度と、とても近いのではないだろうか。
それは、固定観念から醸し出される”気分”に左右されて生きることの、対極にあるのではないだろうか。
”文系”を科学じゃなくしてしまったのは、いったいなになんだろう?!?


読売新聞は、民主党政権を”理念が無い””場当たり的”と批判している。
そうだろうか?
”友愛”は、明確な理念だろう。このものさしに当てはめてみれば、各事象、どのジャンルも、どうあるのが理想的なのか見える。
そして、政治システムのどこが、問題を生んでいるのかを見出し、システムを変えている。
なるほど、釤ここをこうします””あそこをこうします”という話は、当初なかなか出てこなかった。しかし、システムを変えれば、生まれてくる結果は自ずと変わる。
むしろ、読売新聞のほうが、場当たり的な対症療法しか念頭に無くて、いま、根治療法が行われていることに・意思決定の仕方が変わったことに、気づいていないのではないだろうか。
毎日新聞には、”取材のしかた、だれが情報を持っているかが、すっかり変わった””政局の取材だったのが、民主党政権になってからは、政策の取材になった”といった記述が出ている。