無常・無我・慈悲

我々人間は、しらずしらずの間に私自身の現存在を通じて、そこに幼い時から成長して現在にいたるまで肉体や精神の成長変化を認めながら、そこに「私」と呼ぶ実体的「我」を想定し、成長変化してきた私そのものをつかまえて、私は私であると考える。しかし、諸法無我はそれこそ我執であるとして退け、変化をその変化のままに、変化するものこそ私なのだと説くのである。この意味で、諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、つねに一切の力の中に関係的存在として生かされてあるという、縁起の事実を生きぬくことを教えるものである。

このような共々に生かされて生きているという自覚の中にこそ、他者に対する慈悲の働きがありうる

大切なのは、コレだけ情報が多い中で、
誰かが決めた価値より
自らが正しい価値判断をする事なのですね。

流行や、世間様の基準と違う判断を自らすると、我を張っているかのように観られることがある。


でも・・・”無我”の境地に近いのは、自ら判断するほうなんじゃないかなぁ、たぶん。
たとえば。

ソファーに使われる皮革の良し悪しは
そこそこわかります。
突板と無垢とデルナチュレの違いは
絶対にわかります。
何が良い家具かも多少わかります。

これって実は、”我”が判断してるというよりは、「だって、そうなんだもん」の世界。
ものの本質が、私に、そう語らせてる。


逆に、誰かが決めた価値にのっとるのって、
実際、慈悲からは遠くなるよね。

変化を繰り返し続ける中に、変化しない何者かをとらえようとしたり、何者かが変化してゆくのだと考えようとする。その変化の主体を想定してそれを我(が)という。

”常識””しきたり””慣例”などは、”変化しない何者かをとらえようとしたり”だろうし、
”流行”なんてのは、”何者かが変化してゆくのだと考えようとする”のいい例だよなぁ。
つまり、どちらも”我執”ってわけだ!
ううむ!ありのままを観ずに、我を守ろうとしてる。なるほどそうだ。慈悲からは遠ざかるわなぁ。



すんなり理解できたのは、
中島みゆきさんの歌”世情”が、頭の中に響いてきたから。

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく 変わらないものを 流れに求めて

こちらが、”何者かが変化してゆくのだと考えようとする”。

時の流れを止めて 変わらない夢を 見たがるものたちと 闘うため

こちらが、”変化しない何者かをとらえようとする”。


どちらも、変わらない”よりどころ”を求めようとしてるのは同じ。
ところが、”よりどころ”が違うがゆえに、共存できず、衝突せざるを得ない。慈悲からは遠ざかるばかり。
そうか、これが、我執なのか・・・。みゆきさん、凄いや。


高校の頃、初めて聴いたときから、この歌、ずぅっと気になっていた。
たぶん、僕の人生の、大きなテーマなんだろうなぁ。
節目節目で、思い出す。
都度、理解が深くなってる。
そうだよなぁ、
無我を識るには、我執を理解する必要が、あるもんなぁ。