レスポンシビリティ

秋の再流行に対する米国の対策

アメリカのCDCって、凄い。
現状をどう分析していて、どんな懸念があって、どんな調査をし、どういう対策を検討し、いまなにを成しているのか、明確に・具体的に広報している。
サーベイランスのデータも、迅速に、グラフ化されてわかりやすく出てくる。


日本の関係者も、きっと、いろんな検討をし、手も打っているのだろう。
でも、CDCのように、リアルタイムに、明確で的確な報道はされない。

先読みをし、起き得る事態を予測して、望ましい未来を現実化するように、主体的に動く。
それが、レスポンシビリティ=責任。
日本人に欠けてるのは、これ。

”レスポンシビリティ”とは、”レスポンスする能力”という意味。
これをたいてい、”責任”って訳すんですが・・・


僕たち日本人がぱっと想う”責任”って、
「全責任は、私が取る。おまえたちは、思いっきりやれ」だとか、
「責任を取って、腹を切れ」みたいなイメージが、ありませんか?
「誰が責任を取ってくれるの」とか、「責任を取らされないように、無難に」とか(^^;


レスポンシビリティって、能力ですから、取ったり取らなかったりするものじゃぁない・・・みたい。
能力が高かったり低かったり、関与が深かったり浅かったり、発揮したりし損ねたり、するもののようです。


責任者の役割って、
でんと座ってて、いざとなったら詰め腹を切る・・・のではなく。
刻々と変化する状況に、的確にレスポンスし、現実をより好ましく変えていく・・・具体的能力が要求される。
と同時に、下っ端も、お客さんも、レスポンシビリティを主体的に発揮する。能力の高低、関与の深浅はあるにせよ。


CDCは、一言で言えば、「レスポンシビリティが高い」んですよね。
その結果、市民も医療関係者も、現実に対して的確なレスポンスを取れる。社会全体のレスポンシビリティが高くなる。
かくして、現実が変わる。
これぞまことの、”責任”の果たし方ではないでしょうか。
詰め腹切ってもらったって、現実はなんにも変わんないですもんね。



そして、民主主義のベースには、このレスポンシビリティの考え方がある。
市民一人ひとりが、全員例外なく、社会全体に対して”レスポンシビリティ”を発揮する。
だからこそ、多様な価値観を抱合し、状況の変化に対応しながら、より的確に社会を変化させていける。柔軟に、強靭に。


誰かに責任を負わせようとする、封建主義的なやり方は、脆弱で硬直。
日本はまだまだ、その段階なのかも・・・?
いえいえ、大多数の人は、自立した市民。

30%以上の人が「マスクが売り切れて(新たに)手に入らず、不安を感じている」と答えた。着用効果について、「自分への感染を防ぐ効果は低いと思う」とした人が42%だったのに対し、「他人への感染を防ぐ効果は低いと思う」は25%で、エチケットとして着用している状況がうかがえた。外出後の手洗いやうがいは80%以上が実行していた。

立派です。
マスクが入手しづらい中、83%もの人が着用している。しかも、「万が一、自分が感染していたら」・・・と、他人への感染を防ぐ目的で。
そして、マスクだけに頼りきって安易に安心するのではなく、手洗いやうがいも励行している。
情報を集め、主体的に判断をし、社会全体のことを考えて、最善を尽くそうとされている。


調査対象の、神戸市中央区・東灘区・灘区は、日本で最初に、成熟した市民社会が生まれた場所でもあります。
阪神大震災のときも、窓ガラスが破れ、床に散乱したコンビニの商品を、略奪していく人なんて居なかった。きちんと並んで、お金を支払って、皆に行き渡るように当座必要な数だけを購入・・・と聞き及んでいます。
最初の国内感染例が、ここで発見されたのも、たぶん決して偶然ではない。医師が、学校や地域社会と、深い信頼関係を結んでいたからこそ、ご自身が隔離されるリスクを負ってまで、機転を利かせてPCR検査を依頼できたのではないでしょうか。