ストールマンのみならず、彼ら「北極星」が果たしてきた役割というのは、たぶん定量的に計測できるものではないし、私たちが普段意識するようなものでもない。おそらく、彼らを失って初めて分かるような性質のものではないかと思う。あえて言えば、それは彼らが見ている以上生半可なことはできないというようなある種の緊張感だ。

FSFの公式見解も宣う通り、一切の留保抜きで、とにかくソフトウェアは自由であるべきだ、と考えるのがフリーソフトウェアである。そして、ソフトウェアを自由にしたほうがこれこれこういう理由で便利だ、だからそういう場合はオープンソースにしよう、と考えるのがオープンソースだ。言い換えれば、フリーソフトウェアは倫理的な規範であり、オープンソース功利主義的な判断だとも言える。もっと端的に言うと、たとえばクローズド/非フリーなソフトウェア(この世界のジャーゴンとして「プロプライエタリ」あるいは「独占的」と呼ぶことが多い)で自分が必要とする仕事が十分こなせる場合、それでよしとして利用し続けてしまうのがオープンソースで、それでもなおフリーな代替品の開発に勤しむのがフリーソフトウェアである。あるいは、機能的に多少劣っていたとしても、フリーな選択肢をあえて選び、開発にコミットするのがフリーソフトウェアである。このような、発想あるいは姿勢の違いが両者を隔てていると私は考える。
(中略)
人は、単に楽しくて自分の得になるというだけで本当にオープンソースにコミットするのだろうか。便利ならばクローズドで良い、と何のてらいもなく言い切ってしまえる人ばかりになった時、私たちは後戻りを始めるのではないかという気がする。いや、便利で楽しければそれでいいんですけどね。ほんとに。

そういった「資格」の無い人がオープンソースについて語って一向に問題ないのである。なぜかと言えば、問題は語る「資格」ではなく、語る「内容」だからだ。

上の話には一つ条件がある。誰が何を語っても構わない。その代わり、間違っていたときには容赦のない批判を浴びる可能性があるということを分かっていてほしい、ということだ。言い替えれば、そういった批判に晒されるリスクを引き受けることが、オープンソースについて語るための唯一の「資格」だと私は思う。前述のような大変広い意味での「資格」すら無い人が発言する場合、おそらく議論はリアリティを欠いたものとなり、批判を受けるリスクは高まるだろう。それでペナルティとしては十分だ。そうやって多くの議論が淘汰され、残ったものが吟味の上鍛えられていけば、多少効率が悪くてもそれで良いと私は考えている。
(中略)
結局、オープンソースでは権威ではなく内容が唯一の判断基準なのである。そして、判断は基本的にオーディエンスが行う。オーディエンスには当然あなたも含まれるのである。確かに、誰もが言いっ放しでは困るし、間違った(と思われる)意見が大勢を占めるのもまずい。そのためにも、私たちは厳しいオーディエンスでなければならない。優秀なオーディエンスは希少な資源だが、そこはうまく出来ていて、オーディエンスの獲得についてもある種の競争があり、プロジェクトの死命を制するような重要な議論にはそれなりの論客が集い、どうでもいいことにはどうでもいいオーディエンスしか集まらないように思う(これはかなり楽観的な見方かもしれない)。そしてもちろん、オーディエンスだからといって安全地帯にいるわけではないのである。
(中略)
オープンソースに名付け親は存在するが、代表者はどこにも存在しない。私が語るのは、私のリアリティに過ぎない。他の出演者には他の出演者なりのリアリティがあり、そして、あなたがたにはあなたがたのリアリティがあるはずだ。もし私のリアリティとあなたがたのリアリティが異なるならば、どこが異なるかをぜひ伺いたいと常々思っている。それを聞かせてもらえる可能性を確保するためにも、私は「資格の無い人間が語ってはいけない」などという論には強く反対する。そして、あなたの感じた違和感を、私たちにも分るように言語化する労力を惜しまないでほしいと思うのだ。それを見て、私たちは自分の考えを深めることができる。これもまた、オープンソースへの大きな貢献なのである。