どんなときに満たされるか

美に触れたとき。
価値を創造したとき。


僕の場合、この2つかな。


不足を・マイナスを、ゼロに近づけようとしても、なかなか満たされない。たぶん、満たされはしない。
美に触れたとたん、自分が価値創造の源泉となっちゃう。
価値創造に集中してるとき、自分がマイナスかどうかなんて、すっかり意識の外。


満たしてもらうことを考えるよりも、
自分が美を発見すること。
自分が価値を創造すること。
それが、人生を意義深くするんじゃなかろうか。


なぁんて記事を書こうと想ってたら、全然別件のことを調べてて、素敵な言葉に出会った。

自らの貢献の内容を選び出すには、
  (1)状況が求めているものは何か
  (2)自分の強みや価値に根差したものは何か
  (3)そこから生まれる成果の意味は何か
という3つのファクターを、十分考え合わせればよいというのである。
 現在のように、無限ともいうべき選択肢が提供されているとき、運命に支配されずに自らの運命の主人に少しでもなるには、気ままであってはいけない。「自らの果たすべき貢献は何かという問いからスタートするとき、人は自由となる。責任を持つがゆえに、自由となる」という味わい深いドラッカーの発言を、われわれとしては十分噛みしめるべきではなかろうか。

自分だからこそ創造できる「素敵さ」を発見し、創造し、提供する。
世間様教徒が、「世間様に自分を満たして欲しい」というエゴさえ捨てれば、この境地に、すぐ行きつけるのではなかろうか。


さらに。これまた全然別件で、それぞれ出会った言葉たち。
「エゴをはなれ創造に集中する」・・・その境地を、それぞれに描いてます。

偉大な事を成し遂げる人には、極限まで考え抜いて、最後にアホになる、そういうタイプが多い。

ある人が「考えているやるよりも行動するやつが強い、行動するやつよりも楽しむやつが強い」と言った。
(中略)
分子レベルと人の行動のレベルを単純に比較することはできないと分かっていながらも、大きな分子が自分で自分を触媒し、長くなったりつなぎ変えをしたりしながら、複雑をますます増していくという自己触媒反応のように、人の行動はさまざまな縁を生み、縁が楽しみをまし、より大きな行動を作っていくように感じられてならない。

この行動は、私に儒教でいう「礼楽」を思い出させる。儒教では「礼」とは秩序のことだ。儒教は如何に個人レベルで、国家レベルで秩序を保つかという学問であると私は想っている。しかし、どれだけ強調しても「秩序」だけでは秩序が保てない。厳格すぎる体制下では人が生きていけない。しかし、そこに楽があれば、礼という秩序を補完し、強化し、生き延びさせていくことができる。

礼という秩序を補完し、適切にし、適応・進化させていく・・・という感じかもしれませんね。

ときには普段やりなれている物事、例えば洗濯物の取込、掃除、調理、洗顔・洗髪(体を洗うことも同様)、等々のどれかひとつに、他にまだある物事の後先など考えずじっくり取り組んでみてください。普段はさっさと行う物事でしょうが、「今はこれに集中する」という気持ちでじっくり、ゆっくり行ってみてください。言い換えれば「丁寧に行う」ということです。普段私たちはよほどの事でないかぎり「物事を丁寧に行う」ことをしていません。そのように集中して行ってみるとどれもが実に味わい深い物事となるはずです。慣れていると思えていたその物事にさらにちょっとした気づきを得ることもあります。

某大手メガネ店にて、男性店員と女子高生の次のようなやりとりの光景を伺いました。

店員:本当にお待たせしてすみません;;;
女子:いえ、だいじょうぶです(丁寧な言い方でニコニコ)
店員:いや、まさかこんなにお時間を取らせてしまうとは;;;
女子:いえ、本当に大丈夫ですから(丁寧な言い方でニコニコ)
店員:お詫びとしまして、ポイント倍にしておきましたので;;;
女子:ありがとうございます。(ニコニコ)
店員:またのご来店お待ちしておりますm(__)m(深々)
女子:(笑顔で会釈)

この背筋がぴっと伸びた女子高生の振る舞い、<ゆる体操>超基本9メソッド ISBN:4774506877 を、一昨日から読み始めてるのですが、その中で紹介されてる「センター」という身体意識の話と、共通してます。
身体感覚を磨くことで、エゴを抜け出す・・・というのも、ありますねぇ。