正しさ・・・モデル化とその限界

善と悪の付録編2。
実は、天動説・地動説って、僕がよく「正しさ」の説明に使うんです。
「世の中の大概のことは、いろんな言い方で語ることができる」

どんなに人間がその思考によって「地球は回転していない」と主張しても、地球の自転が事実であることは受け止めざるを得ません。

いえいえ。地球は固定されていて、ほかの天体が動いている・・・という座標軸で、天体運行を語ることもできます。ただし、むちゃくちゃ複雑になるけれども。
「天体の動きをシンプルにモデル化する」という目的に照らすと、地動説は上手く機能する。地動説を採用することが正しい。ただそれだけのこと。
そして、どんなモデルにも、限界があります。太陽が固定されていて、その周りを地球が公転していると考えたほうが、そしてさらに、太陽も銀河系の中心を軸に回転、さらに銀河系も・・・と、語りたい対象に合わせて座標軸はどんどん変わっていく。
アインシュタインの理論が登場したからといって、ニュートン力学が存在意義をなくしたわけではない。そしていずれ、アインシュタインの理論で説明しきれない現象を、スマートに解き明かすモデルも登場するでしょう。だからといって、アインシュタインの理論が存在意義をなくすわけではない。
地動説が生まれたからといって、地球は不動という座標軸が有用性を無くしたわけではない。事実、日常生活の大半で、私たちはそちらの座標軸を使ってますよね。もし「太陽中心の座標軸が正しいのだから、すべてこれを使え」なんて言われたなら、不便極まりない。


ところが。「悪」とか「誤り」と言われたとき、人は、存在意義そのものを否定されたかのように感じてしまいがち。「ある目的に照らすと、うまく行かないよ」というだけなのに。それはなぜか。


人は、モデル化しながら世の中を把握します。「私はこんな人だ」「ああいう感じの人はこういう振る舞いをする」「歯を磨きながら右手を伸ばすと、歯磨き粉がここにあるはずだ」からはじまって、「生産力の増大と社会構造の関係」とか、「景気の波」とか、「原子」とか、「相対性理論」とか・・・。
どんなモデルにも、限界がある。ある目的には適っていても、例外も必ずある。
モデルは、ありのままの世界そのものではない。でも、モデル化してしか、われわれは世の中を・宇宙を・自分を・外界を、把握することができない。ついつい、モデルこそが、実在そのものだと思い込んでしまう。どんなモデルで世の中をとらえているかが自分のアイデンティティだと誤解してしまう。
だから、モデルの限界を指摘されたときに、しばしば猛烈に反発します。存在の基盤を覆されたかのように誤解してしまうから。


「自分の生き方は、外部が決める」
正誤や、善悪の判断は外部から与えられ、それにしたがって生きる。
・・・まだまだ私たちは、そういう時代のしっぽを引きずっている。


「自分の生き方は、自分で決める」
こう生きたほうが生きやすいと想うから、こう生きている。実は昔からそうだった、とも言える。
そしてしばしば、見落としがある。より本質的に大切なことを、ないがしろにしていたりもする。
何が「正しく」て、何が「善」なのかよりも、なぜ自分にとってそうなのかを問う。
なぜ、どういう目的に照らして、そのモデル・行動・スタイルを採用すると上手く行くのかを語る。それが大切なのだとつくづく想います。