遮断と統合 分かると悟る
情報の落差が組織を作る
遮断と抽出が自分を作る・・・のかも。
それがユニークな視点を生み、個性を生み、ドラマを生む・・・のかも。
一方で。
自分の感じていることに蓋をし、遮断することで、こころに多大な負荷をかけている・・・なんてことが、しばしば起こる。
さらに。
なぜ、私達は不幸なのか。
それは、私達が考えること、行うことの
99.9%が自分自身のためであるにもかかわらず、
本当は、自分自身など、いないからである。
自分というものが幻想であることに気付くと、
苦しみから解放される。
苦しむべき自分などないからである。
「無我」といっても、自我を破壊する必要はない。
最初から、そのようなものは存在しないからである。
「悟る」とは差を取ること。実はすべてがひとつだということを知ることらしいですよ・・・と、5年ほど前、聞かせてくれた人がいた。どうやら、そうみたい。いろんなレベルで、いろんな意味で。
もひとつ。
http://plaza.rakuten.co.jp/ohori/diary/200412090000/
善と悪、正と邪、白と黒、陰と陽などなど「分かる」という言葉の意味は二つに分けることから来ているそうですが、まさに人間は物事を二つ以上に分類することによって理解します。
確かに何でもカテゴライズして分類整理すれば頭に入りやすいし、お互いに理解もしやすいでしょう。
しかし、「分ける」ことによって大切な何かを失う可能性もまた否定できません。
その分け方が正しいのかどうかなんて誰にもわからないし、もっと言えば分けること自体がいいことなのかどうかということも誰にもわかりません。人間の勝手な都合によって勝手に分けられただけなのですから。
縦割りにされた組織を例にとると、確かに専門特化したことによって業務は効率化します。しかし、どこに属するのかわからない仕事をするときや、新しいプロジェクトを興すときには、既存の縦割り組織が弊害となるのはよくあることです。省庁なんてまさにそうですよね。
万物斉同の境地・・・あらゆるものを無差別に包容する無限の境地(゜o゜)
まずはすべてを無差別にありのままに受け入れる。そして、自由な発想で自分なりに分ける・理解する。
しかし、それはあらゆる可能性のうちの一つの分け方をしただけ。
いつでも訂正できる心の余裕というか遊びを持っていなければ固まってしまう=居つくことになります。
わかることで、意味が生じ、世界観が生まれる。
べつのわけかたをすれば、別の意味が生じ、同じ世界がちがう観えかたをする。
万物が一体である・・・という理解をしっかりもったまま、いろんな切り口で世界を眺めたら、面白いんだろうな。それが世界平和への道なのかも。