楽と快は違う
私達は日々、何かを選択しながら生きているわけですが、人間も動物ですから、損得勘定ではなくて、「やりたいこと」「好きなこと」を選んで、気持ちいい、快適だなと思う方へいくのが一番自然なわけです。判断基準として楽を選ぶなということです。楽を選ぶとそのときはいいのですが、後でしっぺ返しが来て苦しむことになります。
楽よりも快
損得よりも想い
感情よりも感性
観念よりも実感
思考よりも直感
記憶よりも今
・・・これらに共通するものを感じるなぁ。
ん!!!どれも、前者は頭、後者は身体、なのか!
頭をどう使うか・・・というのも大切だなぁ。
頭と身体をどう結びつけるか。
固定化した思考パターンをどう解きほぐすか。
固定化した身体の使い方をどう理にかなったものにするか。
理を見抜くのは、頭だよな。・・・いやまてよ、頭ではなく、身体かぁ。
理にかなわない身体の使い方を強制させてるのは、頭だよなぁ。
体感が、理にかなってるか否かを示してくれる。
よき改善策を案出するひとは、体感的に業務や作業を把握している。
観念的に業務をとらえていると、いい改善策が出てこないような。
評価基準を持ち込むのは、頭かなぁ???でもそれも、体感がベースになってるような気もするなぁ。
いや、「頭よりも身体」ではなく、どちらもより高度になる必要があるんだろうなぁ。
体感には、錯覚がある。思考には、パターンの固定化がある。
正確に、柔軟に、繊細に、骨太に、創造的に。
先日、本屋で立ち読みしていたら、面白いことが書いてありました。精神療法の本だったのですが、人間が行動を起こすとき、決断するときには、二つの欲望があって、それは
1.苦しみから逃れたいという逃避の欲望
2.よりよく生きたいという自己実現の欲望
だというのです。
そして、1の欲望を「あるがまま」に受け入れたまま、2の欲望を満たすべく「あるがまま」に行動することで神経症の患者を治療していくというのです。
(中略)
この話は操体に通じるものがあります。まずは「あるがまま」に受け止めるということです。臨床のときには本人の心の状態、体の状態をあるがままに受け止める。そうなってしまったものはしょうがないのだから、なぜそうなったのか?に気づきをもってもらいながら、できることから無理なくやっていくということです。
また、「逃げることは根本解決にならない」というところも共感できます。「痛い方から楽な方へ逃げてみる」という逃げの操法は緊急避難という意味で必要な場合もあるかと思いますが、やはり一時的な痛みから逃れるだけでは本人の気づき、心の根本解決にまでは結びつかないからです。操体はただ治ればいい、痛みがとれればいいというものではなくて、自分の意志で「キモチよさ」のあるこの動きを味わってみたいという、前向きで自発的な方向へ本人を導くべきものだと思うのです。
んですなぁや。いかに「快」を味わう方向に導くか・って、指導において大事だよなぁ・・・。