http://d.hatena.ne.jp/BigLove/20041129#p1
大切なものって、戦わなくたって、最初からここにある。

の続き。

ユリーカ!〜仏陀の悟りに到る道〜:悪の発生原因 http://mind.moo.jp/cgi/mt/archives/2004/12/post_129.php
《己れ 悪しきをなさば
己れ けがる。
けがれと 清浄とは
すなわち 己れにあり》
――釈迦


人があらゆる無明(=智慧の欠如)から解放されたとき、
「悪」というものは無くなる。
孔子の言う「己れの欲するところに従いて、矩を越えず」という境地である。
ガラス玉をダイヤモンドだと思い込んでいるから、
他人のガラス玉を奪おうとして悪が発生する。
それらが単なるガラス玉(=無価値なもの)だと理解すれば、
それを盗もうとする人はいない。
私たちが価値あると思い込んでいる金、異性、地位、名誉等は、
キラキラと光るガラス玉に過ぎず、
何も自分の心を幸福にする力を持っていないという真理に気づけば、
それを奪おうとする悪の思いや行為は発生しようがない。

至福の瞬間・・・それをどんなときに味わったか、振り返ってみると。
金、異性、地位、名誉、なぁんにも関係ないんだよね。
そこにあったのは、たとえば、楽器、友情、親愛、夕日、森・・・そして、たぶん必須なのは、オープンでナチュラルな心。ありのままの望みが、ありのままに表現され、ありのままに実現し、ありのまま味わってる。「自分」と「望み」と「今」とが、ぴったりそのまま重なってる。「肉体」と「想い」と「空間」とが、融合しひとつになっている。
まさに「己れの欲するところに従いて、矩を越えず」だったんだなぁ、ああいうのが・・・。欲求が、そのまま、ありのまま、今。


なぜ、「己れの欲するところ」を越えて、貪欲になってしまうことがあるのか。
それはきっと、不安だから。
不安だから、多めに集めようとしちゃう。蓄えようとしちゃう。でも「幸せ」って、ものじゃなくって状態・感覚・在りかただから、蓄えられないよ・ねぇ。


「動中の静」http://d.hatena.ne.jp/BigLove/20041129#p2 とともに在るときって、不安に支配されない。
すると「己れの欲するところに従いて、矩を越えず」、生の今を味わい、至福の瞬間を生み出せちゃう。どうやら、そういうことなんだな。


・・・なぁんて、ほぼ書きあげたときに、実は、矢印キーの上にある「前のページに戻る」キーにうっかり触れちゃった。
「うゎ!文章、全部消えちゃったよ・・・。あぁぁ、せっかくいい調子で言葉がつむぎ出せてたのにぃ!!!俺ってドジだなぁ、何度同じミスをやっちまうんだ・・・まめに保管しとけばよかった。でも、筆がのってるときって中断しづらいもんねぇ。そもそもなんで、こんな不要な特殊キーが、こんなところについてるんだよ、このパソコン、もう。ぁあぁ、またちゃんと、的確な言葉をつむぎ出せるかなぁ・・・ぇぇえっつと、どう書いたんだったっけかなぁ・・・」と、不安と怒りにつつまれて、ありのままの今を忘れ、自分を責めたり正当化したりパソコンのせいにしたり、そして記憶にすがったりして。その間約2秒。なんと迅速な。「道中の静」はいずこ(^^;;;
「わかっちゃいるけど、やっめらぁれないっ」って奴ですな。

ユリーカ!〜仏陀の悟りに到る道〜:覚醒による解脱 http://mind.moo.jp/cgi/mt/archives/2004/11/post_126.php
最後まで残るのが、
「他人に認められたい」「人より偉く思われたい」という欲であるが、
これらもいずれは消えてなくなる。

うーん、最後まで残るのかぁ(*_*)